上高地ルミエスタホテルの歴史

上高地ルミエスタホテルの歴史と人との関わり

上高地に逗留した、高村光太郎や芥川龍之介。
そしてクライマーズブックをルミエスタに残した日本近代登山の父、ウォルター・ウェストン。

上高地には多くの文化人や著名人が訪れ、そしてルミエスタに各々の足跡・歴史を残していきました。
上高地の歴史と共に、ルミエスタと人との関わりをご紹介します。

上高地とルミエスタ

いつ頃から人が上高地を訪れるようになったのか、定かではありません。
古来より、上高地上流の明神池のほとりには穂高神社奥宮があり、信仰の対象となっていましたが、訪れる人は極めて限られていたはずであり、 江戸時代後期に は松本藩が上高地で大規模な伐採事業を行い、200人以上の伐採作業員が常駐していたといわれます。宿や温泉もあり、かなり賑わったことでしょう。
その頃の湯屋の一つ、清水屋が、上高地ルミエスタホテルの前身です。

ルミエスタホテルの歩み

木材の伐採ではなく、もっと別の目的で上高地を訪れた人がいます。
江戸時代後期、僧播隆(ばんりゅう)は修行のため弟子をつれて度々槍ヶ岳に登頂しました。それまで前人未到だった槍ヶ岳へのルート開拓や登山道設置など、 山岳信仰の対象としての整備を試みました。当時のルートは三郷村から山を越えて島々谷へ、さらに徳本峠を越えて徳沢に入り、槍ヶ岳をめざすルートだったと 言われます。ルートの近くには伐採基地である上高地があり、播隆も食料などの調達や情報収集のために上高地を訪れていたはずです。
彼の死後、槍ヶ岳信仰はすたれ、近代登山が日本に紹介されるまで上高地は森林伐採以外の人々が訪れることはほとんどありませんでした。

近代登山の幕開け

明治維新後、上高地での木材伐採は禁止されました。国有財産の保全もあるでしょうが、主な大木はすでに切り尽くされていたとも考えられます。現在、上高地で大木が少ないのもこのためでしょう。
その一方で、上高地にも以前の森林伐採とは違った目的で上高地を訪れる人々が増えてきました。
一つは地図作成・山林管理のための測量・造標を目的とする技師・作業員、もう一つは海外から伝わったスポーツとしての「近代登山」を楽しむ人々です。
明治10年、英国の技師W・ガウランドが槍ヶ岳に外国人としてはじめて登頂、彼が日本アルプスの名をつけました。

上高地での伐採作業が行われなくなっても、山を愛し、伐採禁止後も猟師として上高地に残った男がいました。後にウェストンのガイドとして有名になる上条嘉 門次です。普通の農家だった自宅には年に2・3回ほどしか戻らず、明神池のほとりに住み続けました。彼の住んでいた場所には、現在は山小屋として営業して いる嘉門次小屋が建っています。
登山者や測量技師にとって、彼のような山を熟知した者の案内は不可欠でした。

上高地に記念のレリーフが残る日本近代登山の父、ウォルター・ウェストンが上高地を初めて訪れたのは、来日から3年後、明治24年(1891)のこと。この時には槍ヶ岳に登頂し、翌年は前穂高岳に登頂しましたが、この際始めて上条嘉門次が案内人として同行しています。ウェストンと嘉門次はすっかり意気投合 し、以来20年近くの間、たびたび一緒に上高地周辺の山々に登っています。
ウェストンは明治29年(1896)のロンドンで出版された彼の著書「日本アルプスの登山と探検」の中で海外に日本の山を初めて紹介しました。この中で上条嘉門次を有能な山岳ガイドとして書いたことから、嘉門次はその後有名人を次々と案内することになります。

ウェストンらの尽力で、英国山岳会に範をとった「日本山岳会」が設立されたのは明治38年(1905)。彼の業績をたたえるため日本山岳会によって上高地にウェストンのレリーフが掲げられたのは昭和12年(1937)です。
現在も6月第1日曜日にはこのレリーフの前で彼の業績をたたえる「ウェストン祭」が開かれ、山に親しむ人々で賑わいます。

焼岳の噴火、大正池の誕生

大正4年6月6日、上高地の南西にある焼岳が噴火し、噴出物が梓川をせき止めました。一夜にして生まれた湖は「大正池」と名付けられました。湖底に水没した森はやがて枯れ、湖面に枯れ木が林立する上高地の代表的な風景が生まれました。
このころから上高地はそれまでの「限られた人々が訪れる秘境」から「多くの人々が訪れる名勝」へと変わっていきます。
大正11年に筑摩鉄道(現松本電鉄)松本~前渕(島々)が開通、これに接続して昭和4年(1929)には中の湯、8年(1933)には大正池、翌9年には 河童橋付近までバス運行が開始されました。
それまでの徳本峠越えルートは足に自信のある者だけが越えられる道でしたが、鉄道・バスの開通により、上高地は 誰にでも訪れることのできる場所となりました。
また、昭和7年には上高地簡易郵便局開局、8年には駐在所設置・帝国ホテル建設など、上高地自身も観光地として徐々に整備され、昭和9年に上高地・乗鞍一帯が国により日光などとともに国立公園に指定されることで、名実ともに日本有数の景勝地となりました。

観光・登山の大衆化、マイカー規制・・・そして現在

太平洋戦争後には観光旅行や登山が大衆化し、戦前にも増して多くの人々が訪れるようになりました。
ところが、モータリゼーションの進行のより自家用車の排気ガスが環境に与える影響が心配されるようになりました。
夏のピーク時には、上高地の駐車場の空きを待つ自家用車が釜トンネルまで続き、あたりにはかけっぱなしのエンジンから出続ける排気ガスの鼻を突くにおいが立ちこめました。
各地の観光地で排気ガスによる樹木の立ち枯れが発生し始めたことから、まだ大きな影響の出ていない上高地でも先手を打ってマイカー規制を行うことになり、昭和50(1975)年から中の湯~上高地間の規制が始められました。
夏季のみとして始めたマイカー規制もその後徐々に期間を延長し、平成8(1996)年からは通年の規制となりました。
マイカーで上高地を訪れる人々にとって不便なのは事実ですが、上高地の自然が排気ガスから保護されるとともに、夏季のピーク時など多くの人々が訪れる時期にはより多くの人が上高地を楽しむことのできる、渋滞のない順調な輸送が可能となります。
さらに、上高地への路線バスを運行する松本電鉄および濃飛バスでは、新島々/平湯~上高地の路線に電気を併用するハイブリッドバスを導入し、環境への影響を最小限に抑える試みを続けています。

多くの人々の努力と理解によって支えられている上高地の自然は、今年も私たちに優しさと厳しさを同時に持つその雄大な姿を見せてくれるでしょう。

ウォルター・ウェストンとルミエスタ

イギリスの宣教師であり、またイギリス山岳会の会員でもあった、「日本アルプス登山と探検」で、 日本アルプスを世界に紹介し、日本山岳会の創設にも深く関わった人物、 ”ウォルター・ウェストン”と、当ルミエスタとの関わりについて、詳しくご紹介します。

ウォルター・ウェストン

ウォルターウェストンはイギリスの宣教師であり、イギリス山岳会の会員でした。 「日本アルプス登山と探検」で、日本アルプスを世界に紹介し、日本山岳会の創設にも深く関わった人物です。

上高地を最初に訪れたのは明治24年で、大正4年の3回目の滞日を終えて帰国するまで、上高地を訪れた際は、清水屋に滞在しました。
そして、後に上高地を訪れる外国人登山者の署名簿にと、後述する「クライマーズブック」を清水屋に残していきました。

クライマーズブックは現在でもレプリカが一般公開され、当時の上高地の一端に触れることができます。ウェストンは当時の清水屋主人加藤惣吉に上高地は後々登山の拠点となることが予想されるので、温泉の権利を取っておく事をすすめたとも言われています。 今日のルミエスタも、景勝地としての上高地もウェストンがいなかったら存在しなかったかもしれません。

クライマーズブック

クライマーズブック

ウォルター・ウェストンが清水屋に残した外国人登山者の為の署名簿。 現在もルミエスタロビーにてレプリカを展示しています。 以下は訳文の抜粋です。

「クライマーズブック」(登山者の本)-上高地温泉場にて- 1914年8月23日ウォルター・ウェストン牧師(英国アルパイン・クラブ・日本山岳会・スイス山岳会所属)よりヨーロッパやアメリカからこの地を訪れる登山者の為に、この本を残します。 上高地は日本アルプスの中で登山基地として、登山者の間に広く知れ渡るようになりました。そこで、ヨーロッパアルプスと同じように、日本アルプスの登山記録を残すことが必要だと思います。
このような記録は読んでおもしろいと言うだけでなく、便利な情報として登山コース・所要時間・天候などを次の登山者の為に、この温泉場を訪れるヨーロッパ人・アメリカ人は、正確に且つ端的に記録し情報として書き残してもらいたいと思います。


この後の記述は1891年のウェストンの槍ヶ岳初登頂の年から1914年までの登山日誌のような形で書かれています。ルートの紹介やキャンプの場所、景観の良いスポットの紹介など、後の登山者への指南書のような役割も果たす内容になっています。

文豪や歌人も多く訪れた上高地

景勝地 上高地は多くの文豪や歌人、そして画家等が訪れ、名作を執筆したり描いて残してきました。

特に有名な歴史は・・・

「美しき山の恋」 ~高村光太郎と智恵子~

大正2年夏、洋画家であり詩人の高村光太郎と智恵子は清水屋に2ヶ月ほど逗留していました。2人は上高地での時間を沢山の油絵を描いて過ごしました。
その後紹介された「智恵子抄」の中の散文、”智恵子の半生”にはこんな件があります。

「私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。」
2人が上高地、そして清水屋でどんな話をしたかは知る由もありませんが、上高地を下り、その翌年結婚。当時新聞は2人の事を「美しき山上の恋」とはやしたてました。

芥川龍之介の見た河童の世界

芥川龍之介の著書「河童」は河童橋からそのヒントを得たとも、河童橋が「河童」からヒントを得たとも言われています。
「河童」の発表(昭和2年)の年の夏、芥川は自殺しますが、「河童」には死を前にした芥川の内面が告白されていると評されています。
はたして芥川龍之介は上高地で、何を思い、筆をとったのでしょうか。

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